ポスティングチラシの歴史を探る!大正時代のポスティングチラシを解説

ポスティングチラシは江戸時代の引き札から始まり、時代の変遷に伴って現在の形になりました。

とくに大正時代はこれまでの時代で使われてきた「引き札」が「チラシ」や「ビラ」へと名称が変わるという大きな変化があった時代です。

そこで、今回の記事では大正時代のポスティングチラシの歴史について、当時の社会情勢とともに解説します。

大正時代のポスティングチラシの歴史

大正時代では戦争後の国内情勢への反発として民主化が進みながら、海外からの文化が定着し日本の近代化が進んだ時代でもあります。

この時代のポスティングチラシについて以下に詳しく解説します。

・大正デモクラシー
・大正文化とチラシの形式の変化
・関東大震災後の百貨店の発展とチラシ

大正デモクラシー

日露戦争後のポーツマス講和会議において、日本は戦争に勝利したにもかかわらず賠償金を受け取ることができなかったことにより、戦争による増税に苦しんできた民衆の不満が爆発しました。

怒りを持った国民は東京の日比谷に集結し、国民大会を開催して近隣に住む政治家や新聞社を焼き討ちするという事件が発生したのです。

この事件を皮切りに、中小企業や商店といった中間層に加えて、日本の好景気で財を得た労働者によって「民衆」が誕生しました。

この「民衆」がデモクラシー運動の主役となって藩閥政権からの脱却を図り、最終的には高額納税者以外でも投票ができる普通選挙の実施に至ったのです。

このようなデモクラシー運動の中で、日本ではさまざまな討論会や政治活動が実施され、討論会などへの呼びかけとして、絵で表現しやすい演説風景とともに当時の引き札やチラシが多く作成されました。

大正文化とチラシの形式の変化

大正時代は、明治時代と比べ国民の生活に、以下の変化が起こった時代です。

  • 第一次世界大戦中、物資の輸出によって日本が好景気に転じた。
  • ヨーロッパ文化やヨーロッパ発祥の合理主義が日本の都市部に浸透し、生活が西洋化した。
  • 工業の発展により、さまざまな製品が開発・販売され国民の生活が豊かになった。
  • 都市部の発達により、都市部における人口が増加し、農村部の人口が減少した。

第一次世界大戦中から終了までの間に、日本の製品に対する需要が世界で高まり、日本からの物資の輸出が飛躍的に向上し、大正前期は好景気に見舞われました。

好景気を軸に工業が発展し、国民の生活が豊かになったことや、農村部から都市部へ人口流出が拡大したことで、都市部での消費が急速に拡大したのも大正時代です。

消費が拡大することによって、消費者からのニーズも多様化し、これまで中流階層以上をターゲットとしていた百貨店も、大衆向けへと経営方針を変化させました。

また、これまでの活版印刷よりも効率的かつ多彩な形で印刷できる「オフセット印刷」が導入されました。

オフセット印刷とは、版の上に油が染みる部分と水が染みる部分を作り、印刷を行う方法です。

オフセット印刷では版と紙が触れ合わないため、版を傷つけることなく、大量に印刷を行うことが可能になりました。

このため、都市部では広告チラシの数が増大し、目に留まるデザインでなければ読まれなくなる現象が発生したのです。

また、百貨店や商店などが配布するチラシには絵やキャッチフレーズが多く挿入されるようになり、独創的な形を持つ変形チラシが多く印刷されるようになりました。

大正時代から、チラシは読むものから、視覚的にインパクトを与えて、顧客を呼び込む「見るもの」へと変化したのです。

さらに、大正後期からこれまで「引き札」であった呼称が、大阪で既に使われていた「チラシ」や「ビラ」へと変化しました。

当時のチラシは引き札と同様、大衆に向けて配布される広告であり、ビラはどこかに貼り付けられる広告であるとの違いがあります。

引き札は江戸時代の木版印刷から始まり、当時は多色刷りがめずらしかったため家の中に飾られていたなど、時代ごとの印刷方法と引き札がチラシへと変化した理由を解説した記事もあります。

関連記事

「引き札」は、江戸時代から大正時代まで使用された宣伝方法であり、現在のポスティングチラシの元と言われています。 印刷技術の向上により、引き札が安価にできるようになるとともに、効果的な広告方法として多く用いられるようになりました。 […]

関東大震災後の百貨店の発展とチラシ

1923年(大正12年)9月に関東大震災が発生したことで東京は甚大な被害を被りました。

しかし、復興への行動は非常に早く、東京にある百貨店はいち早く震災地における商業活動を再開したのです。

百貨店は震災地にマーケットを建設し、日常品の安売りや均一価格での販売を始め、顧客の土足での入店を許可しました。

さらに、品名と値段を記載したチラシを配布することで、中間層以上しか入店できなかったこれまでの百貨店から、誰でも入店できる場所として「大衆化」を加速させたのです。

また、百貨店は出張販売を地方で行うためにチラシを多く配布し、地方の顧客を集めていきました。

このチラシを見た顧客が百貨店に集まることで中小商店が売り上げに大きな打撃を受け、百貨店と中小商店との間にトラブルが頻発したのです。

大正時代のポスティングチラシの配布方法

明治の終期から大正までは事業としてのポスティングが始まった時代ですが、新聞折込によってせっかく始まったポスティング業が衰退した時代でもあります。

次から大正時代における、ポスティングチラシの配布方法を紹介してきます。

・郵便局がポスティング業を代行
・郵便局の撤退後は新聞折込で配布される

郵便局がポスティング業を代行

1910年(明治43年)には郵便広告法が改正され、当時の郵政省が新しい収益源として配達員を使ったポスティングの代行業を始めました。

この代行業ではチラシ1枚当たりの重量の限度が決められており、チラシ100枚毎かつ郵便区間ごとに料金が設定されていました。

この事業が始まる前まで、チラシは労働者や商店の店員によって戸別配布されていたので、ポスティングを代行する点では現在のポスティング業に通じる当時では画期的な事業です。

しかし、チラシは一般の郵便物と一緒に配布されたため、配達がない日にはポスティングができないというデメリットがありました。

郵便局の撤退後は新聞折込で配布される

ポスティング代行業を始めるために設定された郵便広告法は、1924年(大正13年)に郵便業務が忙しいという理由で廃止になりました。

郵便局のポスティング業がわずか14年で終了したのは、業務が忙しくなったという理由だけではなく、新聞折込チラシの台頭が大きな理由と言われています。

新聞折込チラシが台頭する前は、映画館のチラシなどが新聞に折り込まれる程度でした。

しかし、新聞取次業で勤務していた斎藤岩次郎が、約10万枚という大量の折込依頼があったことに注目し、広告社を創立し新聞折込を全国に広めたのです。

大正が終わり、昭和の初期になると百貨店や銀行なども新聞折込を出すほど人気の広告手法となり1冊の新聞に最低でも1枚、最大で8枚程度、折込チラシが封入されている程でした。

そのほか、ポスティングが普及した背景には郵便受けが各家庭に設置されたことも影響しており、郵便受けの歴史について詳しく紹介した記事も作っています。

関連記事

一家に一つ、当たり前のように備え付けられている「郵便受け」。 今や、私たちの生活に馴染んで日常の一部となっていますが、様々な過程を経て、現在の郵便受けの形になっています。 当たり前ですが、ポスティング業者は郵便受け(ポスト)へと[…]

ポスティングのチラシ歴史を探る!大正時代のポスティングチラシについて解説まとめ

・大正デモクラシー運動の宣伝としてチラシが制作されました。

・日本の好景気による消費拡大に伴って、印刷されるチラシの数が急増したため、チラシが顧客の目に留まるようにデザイン重視へと形が変化しました。

・大正時代にポスティング業が始まりましたが、新聞折込の台頭によって衰退しました。

引用
1).高桑末秀、1994、『広告の世界史』日本広告研究所
2).増田太次郎、1986、『チラシ広告に見る大正の世相・風俗』ビジネス社